映画「精神」を観た / 読切漫画「わたしひとりの部屋」を読んだ / 健康の話

映画「精神」を観た

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岡山県にある小さな精神科診療所「こらーる岡山」と、そこへ通院する精神の病に苦しむ複数の患者へスポットを当てた、ドキュメンタリー映画

登場人物にモザイクもなければ、顔も実名も出す。それが”普通”ではあるものの、挑戦的な映画。

 

 

冒頭「こらーる岡山」へ通院する患者が自分の精神の病について吐露するシーンから始まる。

吐露している先は、出演者でもあり「こらーる岡山」の精神科医師である山本昌知先生。

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次第にヒートアップしていく患者は感情を涙として流す。

患者が涙を流す姿に黙って向き合う山本昌知先生は、すっと体を動かすと、ティッシュを手に取り患者に…………渡すことはなく、そのティッシュで自分の鼻をかむ。

 

思わず笑ってしまった。渡さないんかい。

 

とはいえ誤解することなかれ、山本昌知先生は上記の記事からもわかるように、患者の主体性を重んじて、患者を主として人生の選択をさせ、なおかつ孤立させないように、患者の「精神の病」よりも「患者という人間そのもの」を診る、素人意見だがステキな先生である。

 

 

作品に出てくる複数人の患者は、それぞれの生い立ちや抱える精神の病をスタッフに打ち明ける。

打ち明ける内容を聞くと、患者それぞれの主観が入っているだろうが、共通して社会・周囲から理解も助けもを得られず、孤立し隔絶され、精神の病が起こされている。

中でも、追いつめられ気が付けば我が子を虐待死させてしまった母親が語るシーンは強烈だ。

 

山本昌知先生はそれを見越しているのか、繋がりを重要視する。

社会・周囲から零れ落ちないように先生自身とスタッフ、患者同士言葉を交わす場を設け、互いに支え合っている。

 

「患者には自分の考えを悩みを話す場がない」と語る先生。事実そうだなと。

特に現代はデジタルの言葉を綴り発信する場はあれど、自分の口から出た言葉を、聞いてくれる場はそう多くはない。隔絶された患者は猶更。

 

 

話は変わり、私は他者との真に繋がる交流が苦手で、独りが好きだ。

どれだけ愛した人でも、肉親でも、深い友人でも2日一緒に居るのが限界で、3日以上は酷く疲れてしまう。独りの時間がこの上なく癒しである。

同棲やルームシェアは考えたくもない。

 

他者から踏み入られる事が苦手であるが故に、波風立てないように他者に優しくする、周りからは優しい人だと映る。初対面でも誰とでも「良い人」を演じて「対話」ができる。

周りからよく「優しい人だね」と声をかけられるが、その裏は他者に優しくすることであらゆるトラブルを防ぐ為であり、全てに自分可愛さが隠れている。

人を憂うと書かれる真の優しさは持ち合わせていない。

 

 

 

精神の病は対話による精神の交流で癒される。

人は人と繋がることで生きていける。

映画に出てくる患者は、深く注視しないと正気か狂気かはわからない。

対話をし、日々を懸命に生きる患者たちは正気に見えた。

 

なら他者に無関心で自分が全て、自ら隔絶されに行く私は正気と狂気、どちら側だろうか。

 

 

 

 

読切漫画「わたしひとりの部屋」を読んだ 

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映画「精神」と通ずる話。

 

現代の漫画だ。現代の太陽を盗んだ男

就活に失敗し、ゲームと寝食とバイトで日々を潰し生き「延ばし」ていく主人公の物語。

 

とても解像度が高い…現実へのアンテナが敏感な方が描いた漫画だなと感じる。

 

例えば過去の主人公はパッとしないが、容姿に気を遣い今は垢抜けている。

健康の為にバランスボールの椅子を使っている。

その姿には自分の内側への意識を有していることを見て取れるが、生き方そのものを変える気力はない。

 

世の中は戦う者に厳しく、戦わない者に辛く…ただただ生き「延ばし」の人生が、主人公のように波風立たない現代にありふれた20代30代の人生が、心地よく安牌であり多くの現実でもある。

 

 

一見、うだつの上がらないありふれた人生を送る現代を映した半ドキュメンタリー警鐘漫画にも読み取れるが、誰しもどのような人生を選んでもその道に厳しさは待ち構えていて、生活そのものを変える必要は決してない。良くも悪くもないはずだ。

 

それよりも「終わりへの向き合い方」「対話」の重要性を説く漫画だなと。

 

アルバイトで生きていく生活形態の限界、母親の老いと寿命、自身の年齢と体力。

非婚化が進み出生率が下がり、電気代も税率も上がる。世の中が徐々に摩耗してマイナス方向に向かっているのと同じく、主人公の人生そのものも、あらゆる何かが擦り切れやがて訪れる「終わり」を頭の片隅で認知している。

 

そして物語の中で一つの「終わり」を突きつけられる。意中の人が自死する。

主人公の好いた相手はぬるま湯から脱却し戦う者になったが、耐えられず自死を選んだ。

終わりは呆気なく、突然やってくる。それでも時間は過ぎ、世界は移り行く。

 

その「終わりに」対して、密接に接して華々しく「終わり」を迎えるか、目を背けて距離を置き「終わり」の時に心が波立たせないようにするか。

 

前者の方が素晴らしいとされるだろう。それでも密接に接することは「対話」をすることでもあり、「対話」は痛みを生じる。

 

「対話」は本作に欠けた重要な要素であり、母親とも社員ともアルバイト仲間とも、「対話」をしていれば話が好転していたと思われる。

それでも「対話」には痛みが伴う。事実好いた相手が自死を選んだ理由はわからないにせよ、主人公が久しぶりに会って話をしなければ、今も生きていたかもしれない。相手の死にそこまでの痛みを感じることもなかったかもしれない。

 

共存の難しさ。

今は一人ではなく独りで生きていける世界。「対話」も強制されない世の中で、「終わり」とどのように向き合うべきか。

 

生きるだけで精一杯の摩耗した世の中で、

痛みに耐え華々しく「終わり」を彩るか。痛みから逃げ距離を置き「終わり」を波立たせず乗り越えるか。

 

 

どちらが正気で、どちらが狂気だろうか。

 

 

余談で新人アルバイトのカトウ君が主人公の知らない「社員の抜き打ちチェック情報」をその人柄で手に入れてるのが秀逸な描写。主人公が如何に孤独で惨めに感じるかを端的に表している。

カトウ君、仲良くなりたいぜ。

 

 

 

 

健康の話

ここまでめちゃくちゃ暗い話をしたのも、自身の健康状態が起因している。

ちょっとした手術をしたことで、体調が悪くなってしまった。

 

炎症による発熱、満足に食事も取れないことで復調が難しく、ここ3年間は流行り病にも罹患せず健康だったことのありがたみを思い知った。

 

健康はあらゆる要素の上に成り立っていて、一つでも欠けると取り戻すのに大きな労力が伴う。

それを味わったことで「終わり」を強く認識した。

 

常時満足に食事が取れなくなったなら、体を動かせなくなったなら、何か一つでも崩れたなら、金銭的な話もそうだが、なにより精神は保てるのだろうか。

 

他者と生きる道は辛く、独りで生きる道は暗く。

 

 

「何もかも消し去るデカい爆弾」は要らないが、「大切な何かの終わりより先立つ薬」が欲しい。

 

俺に関わった全ての人は幸せに生きてほしい。

 

 

 

そんな感じです。